自転車と株式投資
自転車(ロードバイク)と短期中期株式投資を始めたのは、ほぼ同じ頃。自分が60歳になった頃です。
両方とも初めてと言うわけではありませんが、本格的に始めたのがこの頃。
自転車は、元同僚がやっていたのがきっかけ。
株式投資は、興味本位でやってみたIPOで利益が出たのがきっかけ。
50歳をすぎた頃、定年後は何をしようかと常々考えていましたが、なかなか思い当たらず。
それが、こんな些細なきっかけで、65歳すぎても継続していようとは思いもよらなかった。
取手緑地運動公園へのサイクリング
Youtuberではないけど、気持ちの良いサイクリング日和だったので、動画を作って見ました。
株式投資を始めたきっかけ
職業はIT系エンジニア
サラリーマンとしての職業はIT系ソフトウエアエンジニアで、半導体業界、通信業界に関わりがありました。エンジニアといえば格好良く聞こえますが、徹夜・サービス残業当たり前の代表業種だったと思います。
住宅ローン
借りるときは、自分の世代では返せないんじゃないかと思っていた重たい住宅ローンも、60歳過ぎた頃に返済終え、気持ち的にも少し余裕が出てきたのです。
定年退職後
かなり以前から、定年退職後何をやりたいか考えており、そのひとつの候補に株式投資がありました。ですが、具体的なやり方がわからず積極的ではなかったんです。ただ、資産に関してこんな疑問を持っていました。
- 低金利政策で、貯蓄金利がほぼ0%だけど、余裕資金は金融資産にして、うまくやれば利率が高くなるんじゃないか?
- 株価が高いのに自社株買付資金が給与天引きされているが、株価の安い時にまとめて買った方が得なんじゃないか?
- 👉勢いで持株会から退会した。
自社株証券会社からの営業電話
野村證券から営業電話があり、「郵政民営化により郵政株が割安に購入できます」という営業でした。株が相当余っていたと推察されます。
そこで、少しの株数を購入したのが個別銘柄購入の第一歩。
電話で株が買える
何を思ったか、野村證券にある銘柄のIPOを申込みました。その時応対してくれた営業さん「当たりはしないと思いますけど」の一言。ですが、営業さんの言葉に反し見事当選!、公開当日成り行き売りで20万円弱ほどの利益が出たのを覚えています。
これ、全て電話で営業さんに依頼したのです。今考えると驚きです!
※この頃の私は愚かにも、手数料の事は気にしていなかったんですね。なぜならそんなに売り買いすることはないだろうと思っていましたから。ですが、ここから俄然やる気モリモリで変わっていきます。
私の個人資産ポートフォリオ
色々見まくった中で、資金の区別はした方が良いと思っていて、こんな区分けをしています。
- 現金保有
- 余裕資金
厳密でないにしろ、このような区分けで保有するのがベストではないかと思います。証券会社のサイトにも似たような内容があったりしますので、検討してみてください。
今回紹介しているのは、余裕資金です。
長期は先ほどにも触れた、自社株を30年ほど持ち続けています。
このブログで紹介するのは、短期40%の運用です。
金額は大した額ではありませんが、専用口座で何とか2倍を目標に日々奮闘しています。
生い立ち(暇だったら見てください)
生まれは鳥取、育ちは東京、舞台は松戸、このブログ運営者の ”おだけん” デス!
どこかで聞いたフレーズから入りました。
”おだけん”というニックネームは小学生につけられたものですが、同じようなニックネームの方はだいたい察しがつくのではないでしょうか。
”おだ けん” なんです。
裕福ではなかったけど、苦労は感じなかった。また、天才奇才でもなくスポーツや何かに長けているわけでもない。志があるわけでもなく、付属高校からのエスカレート入学だったので、大学受験戦争などの経験もない。人生の方向性も決めぬまま大学卒業して、サラリーマンとなるのです。
そんな、ゆるーい生活をしてきたサラリーマンが定年して、いまさら何かまずいと気づくには半世紀遅かった、そんな ”おだけん” の自己紹介をしたいと思います。
自己紹介
1956年生まれ、牡羊座
小さい頃の記憶が結構あり、いまだ3歳ぐらいからの記憶がそこそこあります。
なぜかわかりませんが、誰にでもあるもんだと思っています。
自伝を書くわけでないので、東京に引っ越してきた小学生以降の自分で大きく、感じていたもの、記憶に残っているもの、自分の性格やら生活・性質などを簡単に書いてみます。
小学生(1962~1969)
高度経済成長時代の後半
小学校は、杉並区方南小学校という公立の学校に通っていました。小学校の6年間は長いと当時から思い続けていましたが、さてどんな記憶が・・・
鍵っ子
小学生から鍵っ子でした。
両親が共稼ぎで夜まで自宅には誰もおらず自分でカギを持ち歩く、首から自宅のカギをぶらさげている子供のことです。
歳の離れた兄が一人いましたが、一緒に遊んだ記憶は鳥取の頃の記憶しかなく、東京に越してきた以降は一人っ子の感覚でした。
ひょっこりひょうたん島(1964~)
”ひょっこりひょうたん島” 私の年代じゃないとわからないでしょう。NHKで放送していた子供向け人形劇番組です。当時自宅にはテレビがなく、友達の家で見ていました。放送時間が夕方からでしたが、母親の帰宅は夜7時ぐらいだし、歳の離れた兄は遊びで帰らない、『鍵っ子』の私は夕方遅くまで友達の家で遊んでいました。
さぞかし、友達の母親は心配したでしょう。ですが、自宅に電話もない頃でしたから。
そんな今とは異なる世の中で、庶民、特に子供の娯楽は、缶蹴り・鬼ごっこ、ラジオあったかな~。ちゃぶ台囲んで一家団欒夕食、な時代にテレビが出現し、世の中が大きく変わり始めた頃でした。
ちゃぶ台があった記憶はないですけど。
東京オリンピック(1964年)
言わずと知れた高度経済成長の象徴です。朝日新聞デジタルのリンクを貼っておきます。
小学年の頃、自分は航空機整備士になりたいと思っていました。
細かな図柄や図面が好きで、時計をバラしてみたりと、よくありがちな子供でした。
ただ、小学1年生から大人になるまで、『鍵っ子』。共稼ぎの家庭で、自宅に誰もいなく、自宅のカギを首からぶら下げていました。
団塊の世代のだいぶ後ですが、当時は小学校一クラス45人が6クラスと子供がまだまだわんさか。まだまだ裕福とは言えない家庭も多く『鍵っ子』と呼ばれる子供が多少いたような気がします。
当時は高度経済成長期、東京都心部でもあちこちで工事が行われて、小学校近所を通る環七もまだ工事をしていました。新幹線ができ、東名高速道路ができ、1964年東京オリンピックが開催されます。
東京の青い秋空に五輪の輪をリアルで見た記憶がハッキリ残っています。
甲州街道を走るアベベを歩道に座り、隣に座った同世代の子供と喧嘩になった。その子は、私の足を踏むので、踏み返したら泣き出すんです。なぜ足を踏まれたかは記憶にありませんが、何回も踏むので踏み返した。目の前を走ったであろうアベベの記憶はないのに、こんな記憶だけが残ります。やはり、痛い記憶のほうが強いようです。
銭湯
小学生の頃、6畳一間のアパートにはお風呂なく銭湯に通っていました。
夏の暑い日は、洗濯機に入れられて行水させられた記憶もあります。母もO型だったんです、て関係ないような気がしますが、おおざっぱな母でした。
当時銭湯に毎日通う習慣もなく、髪の毛からフケは出るし、また肌の弱い体質にあり冬の乾燥で顔に「はたけ」と呼ばれていた肌荒れがでているような子供でした。
今では朝シャンにお肌のお手入れクリームが常識ですが、当時はそんなものは母親さえも知りもせず放置。小学生高学年になりつつある自分では結構気にしていましたが、解決策をしらず肌ボロボロ。そんな小学高学年だったなぁ。(ももの花クリームはあったが顔に塗ることはなかった)
飼育係(生き物係)
小学校高学年になると、生き物係になりました。校庭にある生き物を飼育しているゲージがありますが、その世話係です。うさぎの子供が生まれて、授業中にもかかわらず先生から世話をしに行ってもよいと投げかけられてゲージの掃除をしていました。
遊びは、空き地でゴムボール使った野球や、2Bと呼ばれる爆竹をマンホールに投げ込んで遊んだりと、当時のママさんからみてもガラの悪い子供だった気がします。
思春期
小学3年生、ザ・タイガース(1966)
あの、ジュリ~~! です。
60歳以上でないと知らないでしょうが、グループサウンズの代表と思います。沢田研二さんは、後にソロでも大活躍してますし。ですが、私が理解したのは小学6年生になったぐらいか・・・
中学2年生、ビートルズ解散(1970)・世代ではない
ビートルズの存在を知ったのは、来日(1966年)のTVニュースでその名前を知りましたけど、音楽に興味を持つのはそのずっと後、解散まじかの時代(アルバム・アビーロード1969年)です。ビートルズ解散は新聞記事で知りました。
当時テレビでは、音楽番組がさかんで、グループサウンズ(GS)が若者を賑わしており、6歳年上の兄の影響もあり、ザ・タイガースやザ・スパイダース、ブルーコメッツなどなどが出演する番組をよく家族と一緒にテレビでみていたものです。
三島由紀夫 自決11.25
三島由紀夫が自衛隊市谷駐屯地で自決した事件ははっきり覚えています。テレビニュースで大騒ぎにもなりました。当時は三島由紀夫という人物を知りませんでしたが、高校に入学して国語の教科書に川端康成の「雪国」に影響を受けて、読みだしました、師弟である三島由紀夫の名前を知ることになったのはこの後です。
小説「雪国」の一説
当時の国語の先生が面白い人物で、「汽車の窓を指でなぞると雫がたれた」この一説は、女を抱いたときの女性自身の描写であると解説していたのを今でも覚えています。高校生の私は「ホントか!?」と興奮したのを覚えています(#^^#)
話はそれましたが、川端康成・三島由紀夫、二人とも自決するわけですが、両者の小説家は私のその後の考え方に影響を与えたと言えます。
初めて買ったレコード・南沙織 17才(1971)
歳の離れた兄がいたものなのかどうかわかりませんが、自宅にはステレオがありました。(テレビは白黒です)。中学生となった私は、思春期に入ります。理由もなく父親に反発し、父親をうとましく思っていました。今更ですが、亡くなった父親に私はそっくりです。独立した一人息子も同じ思いをしているのかと思うと、少し寂しくなったりもします。
話は、初めて買ったレコードの話し
『南沙織の17才』
元祖、沖縄出身のスター歌手。ロン毛の黒髪とチャーミングな顔立ち。すぐにファンになりました。著名な写真家、篠山紀信と結婚するまでは・・・(だいぶ後ですけど)
写真家 篠山紀信
著名な写真家として知られています。南沙織と結婚しましたが、この人はもう一つ私の反感を買っています。
宮沢りえ サンタフェ
篠山紀信の作品です。当時は「清純派女優の宮沢りえヌード写真集」話題沸騰!。別の理由でも話題になったのは当時の最先端ヘアヌード写真集だったことです。私の宮沢りえのイメージは今でも不動産会社CMの中の宮沢りえであり続けています。
ほくろのない宮沢りえ
賛否両論でしょうが、私は別人にみえます。ほくろのある宮沢りえが私の中の彼女ですので、今の姿は違和感があります。ですが、これも個人の勝手な言い分と思ってくださ(*’ω’*))
カップヌードル(1971)
中学生の頃、テレビCMを母親とみていたときに、カップヌードルのCMが流れました。その時の母親の発言が今でも記憶にあります。「今度の夕食はこれでいいか」私は愕然として言葉がでませんでした。実際に夕食がカップヌードルだけになったことはありませんが、日本国民に与えた衝撃は大きかった( ゚Д゚)。その次にカップヌードルの強い記憶は、大学の食堂の自動販売機に、カップヌードルカレー味があったことです。
猛烈な勢いでカップ麺が世の中に現れた時期だったんです。チキンラーメンを発明した日清食品・創業者安藤 百福(あんどう ももふく)はやはり世界に誇る画期的な会社だ(*’ω’*)
高校入学(1972)
高校生の頃に興味があったのは、本田CB750と、フェンダーのエレキギターです。音楽とバイク、当時暴走族が大流行していた時代の象徴です。学生時代両方とも持っていませんでしたが、高校時代の象徴です。懐かしく思うおじさんも多いのではないでしょうか。
付け加えるなら、本田宗一郎(ほんだ そういちろう)、自動車ホンダの創設者であるのは誰でも知るところです。なぜ話題に出すかと言うと、チキンラーメンを発明した安藤 百福、ホンダを創業した本田宗一郎このような発明家、GDP世界第2位に貢献した偉人達が令和の時代日本に出てこないという現実です。昭和の太平洋戦争以降いつのまにか横並びの世の中になってしまったせいなのか?
大学入学(1975)
大学入学の頃は、学生運動の残骸がまだ残っていました。東大紛争は小学高学年の頃テレビニュースで見ていました。当時は訳わかっていません。
大学卒業(1979)
性格は
温厚ではあるが、理屈っぽくて、感情の起伏が大きく、涙もろい。
大雑把であるものの、気になる点には大きくこだわる。
B型?、いやいやO型なんです。